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Junk Essay. 弊社社長のクダラナイ雑記

棟梁に学ぶ「多能工」という技量(1) 2008.07.18 

※写真は本文とは関係ありません。像を創る、ということが決まると、やらなければならないことが山のように出てきて、たった数分(時には数秒)の映像を作るために想像以上に多くの人が携わって完成します。

 ところが、近年の技術革新、特にコンピュータを使った映像技術が大きく進歩し、昨今の映像制作はこのCGや、コンピュータでの何某かの処理を前提とした制作手法が主流となり、制作コストの大半を占める「撮り」という行為そのものが簡素化されたり、時には全く撮りがないものを多く目にするようになりました。また、実写以上にリアルなCGも多くなり、それらは実写よりも遥かに高額なコストをかけて作られることもザラです。

 そうです、科学が万能に近付く程、実写需要は役者のクロマキー(ブルーやグリーンの背景)撮影だけになってしまう日はそう遠くない未来にやって来る可能性だってゼロではないのです。

 さはさりながら、CGで作られた世界はまだまだ進化の途上で出るもの出るものが「珍しく目新しい」ため新鮮で斬新な構成やアイディアが具現化しているので大変な需要期にあるわけですが、よくよく見ているうちに、映像が持つ「訴える力」というものが、実写よりも希薄な印象を受けるときがあります。(私だけかもしれませんが。。)

 当社もCGは普通に取り扱うのでそれ自体を否定することは勿論ありませんし、実写には絶対に真似の出来ない「優れた表現力」もあります(だから今これだけ支持がある)。

 一方で、実写は「情感」や「曖昧さ」、「偶発的な美」という、これまた科学では図れない「人間の五感」に訴える力を持っています。

 実写の最大の問題はコストです。これまで、映像制作は映画やテレビの独壇場で、制作需要そのものが「特権階級」の世界で、「コストはかかって当たり前」という前提がありました。ところが、90年代後半の米国を中心とした映像制作のCGの浸透や、インターネットの出現によるメディアの多様化で、制作コストは大きく抑制(一部には例外もありますが)されて行き、「特権階級」と呼べるような制作需要そのものが過去のものとなりつつあります。

(続く)

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